今日、20世紀型の開発優先社会は終焉を迎え、文化、景観、観光などの側面から歴史的建造物が見直されるようになってきた。
平成8年の登録有形文化財制度の発足などは、その象徴である。しかし、一方で、文化財指定を受けていないがその価値は十分にある古い建物が、道路の拡幅などで無造作に壊されていく現状もある。本シリーズでは、文化財指定を受けた有名建造物から、街中にひっそりとたたずむ建物まで幅広くスポットを当て、それらの歴史的経緯やエピソードなどを紹介する。

旧肘折郵便局

 豪雪で知られる肘折温泉の、旅館や商店が建ち並ぶ通りの一角に、可愛らしい2階建ての木造建築がある。
 昭和12年に建てられ、平成7年まで肘折郵便局として使われていた建物である。

前島密による造語「郵便」
 江戸時代の手紙は、問屋が預かり飛脚が運ぶのが一般的であったが、不当な料金や度重なる紛失が問題となっていたため、明治新政府では、先進欧米諸国にならって近代的な郵便制度を導入する必要があった。その指揮を執ったのが、越後(現在の新潟県)の豪農に生まれた前島密(1835竏・919)である。
 前島は、イギリス視察から帰国した明治4年、日本に郵便制度を創設し、以後、手紙類の配達は全て国営事業となった。これによって、全国に「郵便局」を設置することとなった。ちなみに、「郵便」という言葉は前島密による造語で、「郵」とは古代中国の“駅舎”を意味する。しかし、郵便は画期的な制度でありながら、国では普及資金に乏しかったため、多くの場合は裕福な旧家・名望家が敷地と建物を郵便局として無償提供し、同時に郵便局長の職を担った。
竣工寺の写真

 肘折郵便局が設置されたのは、郵便制度の発足から22年後の明治26年。現在の大蔵村では清水郵便局(明治11年開局)に次いで2カ所目であった。 
 当初は旧家・三原家の屋敷が郵便局となり、当主の三原佐左衛門が初代郵便局長を務めた。その後、村井家、柿崎家と郵便局および局長職が引き継がれ今日に至っている。なお、明治末期に郵便局を引き継いだ柿崎家では、屋敷の一部を郵便局に改装して業務に当たった。

視察が相次いだ局舎の建物
 昭和12年に建設された局舎は、柿崎家の2代目局長・柿崎寛氏が、他の郵便局を参考にしながら独自に設計を行ったものである。
また、建築材に使われた杉も柿崎家の山林から調達した。まさしく柿崎家オリジナルの局舎であった。
 局舎は柿崎家の敷地内に建てられたが、居宅とは独立していた。当時、独立した郵便局舎は、肘折のような山間地域では珍しく、同じ山間地域から視察が相次いだ。
 また、基礎工事として、地上40cm、地下30cm、建物から40cm出っ張る部分に、布コンクリートという素材を用いた土台が造られた。建設会社によると、布基礎は普通の基礎より耐力が強く、石造建築や煉瓦建築に比べてぜい弱な木造建築には望ましいという。それゆえ、建築から70年以上経った現在でも、局舎の建物はびくともしない。なお、木造建築の下に強固な土台を築くことも、当時の山間地域では珍しかったようだ。
 一方、建物を見ると、窓枠のデザインはすべて「〒型」となっている。これは、当時の郵政を担っていた逓信省の「テ」を表現したものであるが、全ての窓枠を〒型にしているのは、全国的にもあまり類をみない。
 ところで、局舎の建設と同時に局内に電話が引かれ、局舎2階の電話室に、電話交換手が24時間態勢で詰めることになった。そこで、柿崎家では敷地内に温泉を掘り、家族だけでなく、夜勤の電話交換手にも使わせていたという。

実は解体しそびれた?
 平成7年に、肘折郵便局が温泉街を流れる銅山川の対岸に新築され、建物が郵便局としての役目を終えた時、旧肘折郵便局で最後の局長を務めた3代目・柿崎進氏は解体を考えていたという。
 しかし、ある時、仙台から建物を視察に来た東北郵政局(当時)の局長が、〒型の窓枠など建物の価値に魅了され、仙台に移築するべく無償譲渡を申し出た。実は、その頃郵政局長の秘書を務めていた人が、かつて進氏の採用した元肘折郵便局職員で、その秘書が郵政局長に建物の仙台への移築を進言していたのである。
 当初の計画は、建物を仙台市役所近くに移築して、1階を仙台中央郵便局(当時)の分局にし、2階を郵政関係の資料館にする予定であった。しかし、移築費だけでも1億円以上かかることに加え、仙台市役所周辺が、防火対策上、古い木造建築を移築できないエリアに指定されていたことから、計画は白紙に戻ってしまった。なお、調査結果が出るまで1年近くかかり、当然のことながら、その間建物の解体は見送られた。
 そして、4縲・年ほど前からは、地域内で建物を残して活用しようという気運が高まり、地域が中心となって、建物内で大正・昭和の写真展や昔語り、ミニコンサートなどを行うようになった。なお、これらのイベントは現在も続いている。
 こうした流れを振り返り、進氏は「(建物を)壊すタイミングを逃した」と苦笑する。


ただそこにある安心感
 現在は、冬期間を除き毎週日曜日に建物を開放し、旅館や商店の従業員が当番で案内を行っている。
 また、昨年から、肘折温泉が開湯1,200年を迎えたことを契機に、東北芸術工科大学と温泉街の協働による『ひじおりの灯』が始まった。これは、夏の夜、温泉街の旅館や商店の軒下に学生らが作成した灯籠を吊すイベントで、2回目の今年は、旧肘折郵便局内で、昨年度の灯籠絵を木枠から外して展示するギャラリーも開かれた。そして、7月の3日間、建物は、ガラス製スライド式の郵便窓口を注文カウンターに見立てた「Bar郵便局」に変身した。
 それでも、進氏は建物の保存に必ずしも積極的ではない。原因は、雪下ろしの大変さにあるようだ。「ここ(肘折)は豪雪地帯なので、一冬に3回は雪下ろしが必要。しかも、人に頼むと1回で10万円近くかかる。それに、そもそも雪下ろしを出来る(力のある若い)人が減っている」と進氏は語る。
 建物を文化財に、という話もたびたびあるようだが、「(文化財になると)補助より制約の方が多くなる」(進氏)ことから、いまだ指定には到っていない。
 しかし、除雪が未熟だった時代に「郵便配達の人が来ると道が出来る」といわれるほど、地域にとって重要だった旧肘折郵便局の建物は、ただそこにあるだけで、見る者に不思議な安心感を与えてくれる、いわば地域のシンボル的な存在である。
 それゆえ、保存基金の創設(ナショナルトラスト運動の一つ)など、今後は、建物所有者(柿崎家)の経済的負担を軽減するような方策も求められるのではないだろうか。

 (荘銀総合研究所 研究員・山口泰史)


機関誌『Future SIGHT』 Autumn 2008 42号 より