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| 最上義光と山形城 |
今から四百年前の慶長六(1601)年に出羽五十七万石の大大名となった最上義光(もがみよしあき)は、自分の本拠地として、山形城と城下町を造った。その規模は、平城としては全国有数で、三の丸は東西1,580メートル、南北2,090メートルでおよそ71万坪の広さとなり、大坂城に匹敵する(国指定史跡 山形城跡)。
「斯波家」の末裔としての誇り
しかし、とてつもないこの広さには疑問がある。三の丸の郭内に、藩祖である斯波兼頼(しばかねより)ゆかりの寺社を9つも取り込んで、城の縄張りをしているのである。また、斯波以前からあった名刹の正楽寺(子の権現)と勝因寺もそのまま残された。これは、当時の城郭建設の手法としては特例である。最上義光の斯波兼頼に対する深い敬慕の念の表れといえる。斯波兼頼以来の城と城下町の外縁部をそのまま取り囲んで、周囲6.5kmの堀と土手を掘り、三の丸濠とした。
清和源氏の直系である足利家と同族である「斯波家」の末裔としての最上義光の誇りが、この巨大な城郭を建設させたといえよう。また、城郭の経始(設計)や寺社の配置にあたって、風水や陰陽道に基づいた中世的な思想が随所に見受けられるのも特徴である。
商工業者の優遇
商工業の振興は、城下の繁栄につながることから、最上義光は、城下の町割にあたって、羽州街道沿いに、「市日」のつく町を商人町としてきちんと位置づけた。南から五日町、八日町、十日町、七日町、六日町、四日町とし、脇に入った二日町、笹谷街道沿いの三日町にも市が立ったので、一と九を除いて、山形城下の北部、中央部、南部のどこかで毎日市が開かれていたことになる。近世城下町の商人町へと変わる過渡期にあたり、当時はまだ中世的な市場のなごりがあったことが、これらの町名からわかる。近江商人をはじめ外来の商人の出入りの自由も許されていた。その財力は、その後の紅花商人の繁栄につながっていった。また、その当時、質屋五人に給米を与え優遇していたことからも、経済活動が活発に行われていたことがわかる。
最上義光は、城下町の繁栄に免税の措置をしていた、すなわち、地子銭(家を借りたり、土地を借りたりする時に支払う借り料)を免除していた。城下に集まってきた人々に、年貢を徴収しないで、間口四間半か五間、奥行三十間を基本とした125坪から150坪の土地を分譲した。当時の町数は31、町屋敷は2,319軒半で人口19,796人だった。武士団を加えると3万人を超えていた。
また、多くの職人衆を集め七日町から十日町の東側に桶町や檜物町、銀町、塗師町、蝋燭町、材木町などの職人町を造った。火を取り扱う鍛冶や鋳物の職人は、馬見ケ崎川の北部に住まわせた。職人の諸役を御免とし、人足役も免除し「御免町」として優遇した。
庄内と内陸を一つに
「庄内と内陸を一つにしたい」という最上義光の夢は、最上川舟運によって実現した。碁点、隼、三ケ瀬の三難所を開削し、船町、大石田、清水の河岸を整備した。最上川を重要な交通路として、米や紅花、青そ、たばこなどを運び、京都・大坂との交易を通して、出羽の特産物を全国の流通ルートに組み入れた。酒田の有力商人の「三十六人衆」 が味方になり、酒田湊も大いに繁栄した。
庄内平野に田畑を増やしたいという最上義光の夢は、北楯大堰、因幡堰、青龍寺川の分水などによって実現した。日本一の穀倉地帯となった庄内の美田こそ、民の幸せを祈った最上義光の功績の一つであろう。自らの隠居城として鶴岡城を造った。それは実現しなかったが、その後、酒井家十四万石の城下町として繁栄した。山形の方は、明治九年に統一、山形県の県都として再び蘇ったのである。
【出典:Future SIGHT 21号(2003年夏発行) 】 |
| (山形市郷土館.山形市 高橋 信敬) |
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