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「月日は百代(はくたい)の過客にして、行かふ年も又旅人也」の名文で始まる
奥の細道は、紀行文学の最高傑作である。
山形県の観光には「山寺参詣」と「最上川舟下り」・「羽黒山五重塔・出羽三山神社参詣」
の3つの大きな拠点がある。
いずれも松尾芭蕪の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」や「さみだれをあつめて早し最上川」・
「有難や雪をかほらす南谷」の名句を知り、全国から多くの旅人が山形県を訪ねている。
江戸時代、交通機関も発達しておらず自分の足だけを頼りとした時代、
未開の地とされた芭蕉と曽良の東北への旅路は、江戸へ戻ることは二度と無いかも知れ
ないという覚悟を備えてものであった。
山形県には宮城県尿前(しとまえ)の関から最上町堺田に入り、
最初の逗留先は「封人(ほうじん)の家」であった。
粗末な宿には閉口したようであるが、「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと」という
ユーモラスな名句が残されており、ここから始まる山形の旅は辛さや悲しみの匂いは感じ
られず、むしろ軽快な印象すら受ける。
山形県の地図を見てみると、県内を横断する最上川は
あたかも山形県の背骨のような配置になっていることに気が付く。
山形は人の顔の形をしているという論もあるようだが、
藩や地域の成り立ち、歴史的経緯を追っていくと、最上川がちょうど山形県の骨格となっ
ており、そこに市町村が肉付けされていったと考えてみると面白い。
暴れ川であった時代、水害との戦いの歴史、そして海運の中心的役割を担い、
いまは、穏やかに流れるこの川が、今日の山形にもたらした功績は大きい。
川の歴史を辿ることは、土地の成り立ちを知ることと同意である。
もっと言ってしまえば、最上川の歴史と共に、山形がなりたって来たと言っても過言ではない。
21世紀の山形県では、
「美しい山形・最上川フォーラム」や、最上川沿いに桜回廊を作ろうといった
数多くの施策が試みられている。
このコーナーでは、最上川にまつわる県内各地の風景を、
楽しみながら追いかけていきたい。
芭蕉と曽良は、堺田からは山刀伐峠(なたぎりとうげ)を超えて尾花沢に向かった。
尾花沢では豪商で俳人の鈴木清風を訪ね、土地の俳人たちと俳譜を楽しんだようである。
計画では、次は庄内へ向かう予定であったが、清風の勧めで「山寺」を参詣することにな
り名句が生まれたのである。
「山寺」は岩壁に寺院が建てられている景勝の地である。
四季折々の景色が楽しめ、新緑や紅葉の頃、
また雪の降る日の墨絵のような素朴な景観が神秘的で素晴らしい。
芭蕉と曽良は山寺から再び尾花沢に戻って、大石田・新庄へと向かう。
途中に最上川の展望が素晴らしい猿羽根峠があり、芭蕉たちも歩いた足跡が残っている。
猿羽根峠は、山形県が生んだ歌聖斎藤茂吉が好んで足を運んだ場所でもある。
茂吉の最後の歌集「白き山」のなかに、
「元禄のときの山道も最上川ここに見さけておどろきけむか」
の一首があり、松尾芭蕉がこの峠を越えた足跡を偲んでいる。
芭蕉と曽良は本合海(もとあいかい)から、川船に乗って庄内へ向かう。初夏の最上川は
雪解けの水で増水し、流れも一段と速くなっている頃である。
強行軍だった陸路の旅から川船に乗り替え、くつろいで見学をした最上峡の景観を堪能し
たに違いない。
今日では「最上川船下り」の観光船に乗って約1時間の船旅を楽しむことが出来る。
船中では船頭さんのユーモラスな案内に笑いが飛び交い、
美声で唄いあげる「最上川音頭」や「真室川音頭」に思わず手拍子を打って音頭をとる。
長閑で情緒あふれる日本の風物詩を味わいながら舟は川を下って行く。
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| Vol.1 松尾芭蕉と山形 |
松尾芭蕉は、46歳の時に弟子の曽良(そら)と江戸深川を立って「みちのく」へと向かったと記録に残されている。
(写真:本合海乗船場跡) |
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(e-yamagataコミュニティのプラットフォームより) |
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松尾芭蕉と山形(後編) |