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| 東北公益文科大学 「現代と公益」より | |||
| 2. 染料、化粧料として | |||
| 1909年にイギリスのピクトリア大学が発掘した紀元前2500年前のエジプトのミイラは、紅花染めの布が巻きつけてあったとしています。それは害虫からミイラを守るためにペニバナ染めにされていたのだろうと維測されています。紅花は一年草で、7月の中ごろに9日間しか花が咲きません。咲き始めは黄色ですが、それから赤橙色に、最後に艶やかな紅色に変わります。その色素のなかで、黄色のものに虫がつかないそうです。だから色はあせても当時の年代が計算できたのではと思われます。実際、正倉院に保存されている経巻は防虫効果の目的で紙が紅花の「黄染め」になっています。われわれは昨年本大学構内のプランターや学生寮横の畑に植えた紅花をみても、顎や葉にはアブラムシがついてはいるものの、花びらには虫がついていないのを確認しました。 今や衣服の防虫剤にナフタリンは環境保礁の問題で発売停止となっています。紅花の乾燥花びらをポプリのように、可愛い袋に入れて防虫剤として使うことは紅花白体が自然な植物であるので、環境に優しい防虫剤として非常に期待されるのではないかと思われるのですが・・・・・・。 昭和52年に山形新聞と山形放送が企画した、山形大学農学部教授渡部俊三教授を団長とし、詩人の真壁仁氏を加えて「紅花の道を探る海外調査団」の4人の調査によると、エジプトのカイロ博物館において、ミイラを包んだ麻布や衣服に紅や赤色を見つけ、5000年前の農耕文化に紅花があったのではと維察しています。また彼等の目的は紅花のふるさとの探求ですが、それはナイル河のほとりが有力な原産地のひとつであると確認しています。 |
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| 赤い色素をもつ植物は、アカネ、スオウと紅花であり、黄色色素のものにはキツルバミ、カリヤス、ヤマブキ、ウコン、キハダ、クチナシがあります。しかし種を掻いて育てないといけないのは、紅花だけです。ですから紅花はこれらの地域で染料植物として農耕文化に携わっていたと思われます。 日本に入ってきたのは染色植物として、エチオピアからエジプトを経てシルクロードを通り、3世紀に中国に入り、日本には朝蔚半島を経て飛鳥時代に、または維古天皇の頃(6世紀)に僧曇徴により高麗から伝えられたという説がありますが、後者が有力です。 平成元年九月に奈良県立檀原考古学研究所は、奈良県生駒郡斑鳩町、藤ノ木古墳(6世紀) の石棺内に紅花の花粉と顔料らしきものを見つけたと発表しました。その後8世紀前半の平城京跡の遺構から紅花花粉が見出されています。 |
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| 山形にはいつから紅花が入ったのでしょうか。 「延書式」 (904年)には紅花の頁納を課せられた24カ国の地名が載っています。越前、加賀、越中などの名前はありますが、出羽の名前は見当たりません。河北町谷地の安楽寺の志納金受取状によると、紅花は天正年間(1572〜1592)に栽培され4人の農民が紅を納めたと記されています。 また別の説もあります。長南地方の紅花栽培は紀元900年頃から行われていました。康正二年(1456)武田右馬助信長 (信玄の従弟) が上総国(千葉県) に乱入して長南氏を攻めた時、利あらずして一族は信州松代に連れ去られましたが、その後、松代を出て長野、信濃川、越後を経て羽黒山を通り、立谷沢に住み着いたと言われています。 そして長南で紅花を栽培していた長南氏一族は紅花の種を荷物の片隅にしのばせ、栽培方法を出羽国にもたらしたといわれています。 天正5年(1577)の織田信長の文書にも紅花のことについて記されています。天正7年 (1579) 最上義光が病気平癒を祈って湯殿権現に斗帳、神馬とともに紅花一貫二〇〇匁を奉納したとの文書が伝えられています。 村山地方の紅花生産は江戸時代の初期、寛永年間(1624〜1643) から盛んになっています。農家収益に必須となったのは寛文年間 (1661〜1672)、延暦年間(1673〜1680)とされています。置賜地方では、慶長(1596〜1614)のことを記した「邑艦」に33村で紅花が栽培されていたことが記載されており、寛永年間 (1624〜1643) に藩主婦人が将軍婦人に紅花を献上していたことが記されています。 庄内地方においては紅花の栽培が安永期頃(1770〜1780)と推測されています。明治初期の資料によると、鳥渡河原、大宮、黒森などで紅花の生産がおこなわれていたことが記されています。庄内地方産の紅花の花の品質が最上紅花よりもよかったことも訂載されています。しかし、作付禁止令がその後(天明2年、1782) に庄内藩の米作農政により交付されてから、紅花の栽培は終わりました。 |
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| このようにして、紅花は布や紙の染料として、口紅や頬紅の原料として、京都方面に移出されます。寛永年間1624〜1643)から移出が目立ちます。寛文年間(1661〜1673)には村山地方全体でおよそ500駄に至りました。享保年間(1716〜1673)には600〜700駄に達しています。一駄は1袋にして重さ32貫目(約21.6キログラム)です。この値段は幕末で100両もしました。当時の農家にとっては最も大きな換金作物でした。それを扱う商人も利益を得ました。村山地方の地主、山形、天童、上山、谷地、寒河江などの商人には紅花で財を築いた人が多いです。 村山地方で産出する紅花は「最上紅花」とよばれ、京都、大阪の上方市場で高く評価されるようになります。幕末、京都五条大橋東詰町正本屋が版行した「諸国建物見立相撲番付」に「出羽、最上紅花」が関脇に番付されています。 当時は横綱がありませんので、大関が最高位ですから、最上紅花は二位です。西の阿波の藍と紅はこの時代には二大染料でした。江戸時代後半の全国の紅花生産額は約2000駄で、この半分が村山地方産でした。 紅花の帰り荷に、上方地方の木綿、操棉、古着類、呉服物、仏像、仏具、雛人形などの工芸品、瀬戸内海の塩、各地産の鉄工具などがありました。そのほかに石灯篭、庭石、蔵や店の作りなどの上方文化が商用から最上川をのぽって村山、置賜地方にはいり、人々の生活を豊かにしました。 このように紅花は日本海の北廻り航路により山形の文化を作ったのです。そのために、1982年に山形県の花に指定されたのです。 その後、中国から「唐紅」と呼ばれる安価な紅花が輸入され、ドイツからの合成染料(アニリン系の赤色染料) の大量の流入により、また文明開化富国強兵の時代に絹製品の輸出に力を入れ、桑の栽培と養蚕が奨励され、紅花畑は桑畑に変わり、幕末、明治の初めから衰えの兆しを見せ、明治10年に急速に衰退しました。 しかし、京都の伝統的染織からの注文需要、明治41年伊勢皇太神宮式年祭の調度品作成に紅花の注文需要、大正8年の明治神宮造営に紅花の需要、昭和3年昭和天皇即位の大礼による需要により、紅花は細々と維持されますが、太平洋戦争の食糧増産政策により、紅花は危機を迎えます。ですが昭和25年、山形紅花振興会が組織され、昭和29年には出羽村紅花栽培組合が結成されます。のちに山形市紅花振興協議会に発展します。口紅の原料として紅花が資生堂化粧品会社と特約栽培が行われるようになります。 しかし今はそれも中止になっています。 |
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