| 荘内日報 日曜閑話 | 2003年3月9日(日) |
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| 渡部 俊三 (山形大名誉教授、論説委員) | |
| 名実ともに紅花の里と自負する山杉の紅花は、昔も今も内陸部が舞台で、庄内の紅花栽培が脚光を浴びたことはないようだ。そして、紅花といえば昔は「最上紅花」であり、最上とは現在の最上地方を指すのではなく、村山地方のことであった。 ところがその「最上紅花」の源流は、現在も明らかにされていない。ただ一つ、仮説として存在するのが「長南紅花説」である。これは史料に基づくものではないが、「上総国(千葉県)長南地方から康正2(1456)年ごろ、戦いに敗れた長南一族が越後を経て、羽黒山の山麓(さんろく)、立谷沢あたりに住みつき、そこで落ちのびる際に携えてきた紅花の種子を蒔き、栽培方法を最上地方にも伝えた」という仮説である。 ここで大切なのは、仮説とはいえ庄内・羽黒の山里で、はるばる逃れて来た一族が紅花栽培をしていたということである。ただし、庄内地方ではこのことに対する関心が薄く、歴史民俗学的な考証も、反論もなかったと思う。現在、立川町に長南姓が多いのは、この仮説とは全く無縁のことなのだろうか。 史料とし残された文書に庄内地方の紅花関係の記載が見られるのは明和5(1768)年ごろからで、酒田の船問屋の控書や「酒田大町念仏講帳」などに紅花に関した記載が見られる。さらに天明2(1782)年には、庄内藩温海村の肝煎(きもいり)が紅花の作付け禁止方を藩に願い出たことが記録とし残されている。 同じ天明のころに書き残された蝦夷地御用控などには「松前紅花、最上山形などと同様、他国の産に異ならず」などと出ているという。これは庄内藩が蝦夷地(松前)に農作物の種子を送り農業の振興を図った時代、庄内産の紅花種子も送付していたことを示している。文久元(1861)年の蝦夷地御用控には「庄内藩領、蝦夷地植付種物、四百九十二文、紅花一升七合」などと記されている。 このように蝦夷地にまで分譲可能な紅花の種子は、当時、庄内地方のどこで栽培されていたのだろうか。推測としては水田以外の畑地か、山麓部の開墾地などではと思うのだが、確たる資料を見たわけではない。 温海地区の紅花栽培を禁止した理由は、紅花染めなどにうつつをぬかし、ぜいたくになることを戒めたのと、水田面積の少ない海岸地帯でも、稲作に励むべしとの藩の命令(政策)によるものだったと理解される。そうだとすれば、平野地でも水田や肥沃な畑地では紅花栽培は行われなかったのだろう。庄内藩時代の紅花栽培はどこが主産地だったのだろう。 明治5(1872)年発行の「殖産略説・紅藍著説」に「羽後酒田ハ鵜渡河原村、大宮村、黒森村ヨリ紅花少ナクトモ十駄(一駄は三十二貫)ニ下ラズ」と書かれているという。恐らく新たに開墾された農地などで紅花の栽培が推奨されたのではと思う。 紅花は不思議な作物で、育苗から発育初期までは乾燥よりは水湿豊富な環境を好むが、それ以後は庄内地方のように高温多湿になりがちな気象条件は、病害が多発するばかりか、紅の品質を低下させ、種子の油脂含量をも減少させてしまう。 庄内地方の紅花栽培については未知の部分が多く、残された関係資料の発掘に力を注ぐ必要があると考えている。 |
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