海坂藩研究所トップページに戻る

故郷「庄内」を作品に辿る

藩校致道館  いまの山形県に庄内という町はありません。山形県史をひも解くと、十六世紀後半に初めて「庄内」という地名の記述を見ることができるようです。内陸に覇を求めた最上氏の系譜とは異なり、庄内は一統に支配された経緯を持ちません。城輪柵や条里制の跡が語るように、遊佐や大泉の荘園が比較的早くから成立しており、ついには荘の内部=庄内という地名に至ったそうです。歴史の表舞台に登場するのは武藤氏を経て、徳川四天王の血を引く酒井氏が入部した頃からです。
 周平さんの作品に登場する海坂藩の町並みは、作家自身が鶴岡市出身という経歴から、舞台を鶴ヶ岡城址に求めたと言われています。現在の市街地に酒井家の体臭が強く残されているわけではありませんが、「致道館」といった建造物や、「家中新町」といった町名に、武士が往来した頃の整然とした町並みを見つけることができます。その間、松山や大山といった領地の分割があり、廃藩置県を経ても庄内という呼称は残ったのです。

 この気候風土を一つにする、出羽丘陵を背に、日本海に向かって扇状に広がる地域を総じて庄内と呼んでいます。

 この山形県庄内地方の最北端に遊佐という町があります。同じ山形県でも内陸のそれとは比にならないほど、この土地の冬は厳しく、地吹雪が起こった日には外を出歩くことさえ容易でなく、鉛のように重い雲と、吹きすさぶ雪の白さに言葉を失ってしまうほどです。夏も冬も、いつの日も大きくそびえる鳥海山は、日本海から曳く山裾が富士にも似た山容のため、またの名を「出羽富士」と言うそうです。東北随一の標高を掲げる秀峰は、月山が「死の山」として山岳信仰の対象であったように、水沸の恵みを司る「生の山」として古来より崇められてきました。庄内という風土を形成した一つの要因として、土地の縦横を取り巻く厳しい自然環境無くして語ることはできません。


 この鳥海山の麓の地域が遊佐の荘と呼ばれた頃から伝わる、杉沢比山という舞があります。時間の経過と共に記録が紛失し、その発祥は定かではありませんが、鳥海山へ奉げる祈りの舞楽であったと伝えられています。廃仏毀釈の時代に文献が焼き払われ、今となっては口頭伝承以外に知る方法はないのですが、杉沢比山は生活に胚胎した信仰そのものの姿です。今日あまり見ることのできなくなった年中行事も、その始まりは稲作や生命をはぐくむ自然への信仰と密接に結びついていたとされます。これら伝承芸能は庄内の自然と共にあり、豊穣を願う人々の祈りと共にありました。
櫛引町に伝わる黒川能も発祥は五穀豊穣を願う農民の切なる願いから生まれ出た祭事と伝えられています。



 その雪深さや、蝦夷討伐の伝説が語るように、一般的に日本人は、東北という土地に対して古くから抵抗感があるようです。そして殊に庄内地方は歴史的な経緯も影響しているのか内にこもりがちな、自らを多く語らない土地柄と言われています。

 持って生まれた気質と、外部の圧力があり、その中で失われていったものと、大切に守り続けてきたものがあります。酒田市には、現在でも本間や鐙屋といった豪商の家屋が点在しています。大火により町の半分は消失してしまいましたが、日本海有数の港町として栄えてきた町の明かりを消してしまわないようにと、西廻航路の開かれた時代の「西の堺、東の酒田」とうたわれた往事の姿が市民の力強い連帯によって復興されました。私たちは今も、輸送物資や、人の往来が途絶えることなかった町並みの息づかいを耳にすることが可能です。

 歩いていても庄内の風土や町並みが美しいと感じるのは、確かに人々が存在していたという息づかいが感じられるからだと思います。それは華やかさとは無縁のものかもしれませんが、飾り立てることのない、庶民の生活に根差した素朴な様相に、感動を覚えます。春夏秋冬の美しさ、人々の優しさ、旬の美味しいもの・・・庄内の繁栄は、庄内平野や日本海の波濤とともにあり、人々は恵みをもたらす自然に敬虔であろうとしました。自然が厳しいほどに、信仰心を厚くしました。そして厳しい季節を越えたところに、春の喜びを見出してきたのです。庄内の風土には生活に適った暖かさがあります。



 この美しい庄内平野を守るために、殿様から農民まで一丸となって戦った歴史があることをご存知でしょうか。

 「私たちの殿様を動かさないでください」と将軍に直訴するため、初春の雪深い庄内から江戸へ登った、天保の義民と呼ばれた人たちがいました。「義民が駆ける」は周平さんが幼い頃に耳にした、三国領地替を題材として描いた作品です。この騒動は「天保一揆」として人口に膾炙した話ですが、新領主となろう川越家の過酷な年貢の取り立ての噂に恐れをなした農民を始め、表向きは関わっていないことになっていますが、放免になる武士、権益を失うことを恐れた商人に至るまで、領民が一丸となって酒井家の異封反対運動を展開したのです。

 この一揆は、江戸期全国で見られたように封建社会における藩主への不平不満に起因するものではなく、その理由が酒井家への思慕の情から出たとも言える点に特異性がります。

 天保十一年、幕府は長岡藩主牧野備前守を川越へ、武蔵野国川越(埼玉県)藩主松平大和守を出羽国庄内へ、庄内藩主酒井忠器を越後国長岡(新潟県)へ領地替えする命を下しました。この決定は正式な評定を経たものではなく、理由なくして石高が半減される、左遷ともいうべき扱いでした。幕府が転封の命を出した事の真偽は明らかではありませんが、将軍家斉と大奥、時の老中水野忠邦の私情が絡んだ継嗣騒動を原因とするのが通説です。 財政が窮追していた川越藩が、将軍家から養子に迎えるにあたり「神田大黒」(庄内藩の江戸屋敷は神田にあった)の異名をとるほど富裕であった庄内への転封を交換条件として提示したとされています。庄内藩は石高十三万八千石ですが、実収は二十万石以上との聞こえがありました。



 国替えを阻止するため江戸に登ったのは、飽海地区(現在の酒田市・遊佐町・八幡町近辺)を中心とした農民たちであったとされています。蓑・笠姿の彼らは一見して田舎から出てきた農民とわかり「庄内の人は殿様思いだなぁ、取るものも取りあえず江戸に来たのか、偉いなぁ」と、人々の同情をかったそうです。集会に参加した人間も含めると、転封阻止に参加した人の総数は十万人とも伝えられています。


 このような反対運動の影には指導者となった玉龍寺(遊佐町)の文隣和尚や、裁判所で公に幕府の内情を暴露した佐藤藤佐一門と、暗躍する人の姿がありました。さらに資金面でこの運動を支えたのが酒田の豪商本間光暉だったと言われています。「天保一揆」は幕命を撤回するために、死を恐れず江戸訴願を行なった農民の美談として人々の記憶の中に刻まれることになるのですが、真実はそこにとどまりません。将軍へ差し出した嘆願書でうたわれていた藩主への思慕の本質は、生活を案じる自分たちの保身の意識が働いたからとの指摘があります。当時の資料は、発覚した際の処罰を恐れ、意図的に文献を残さなかったことや、極秘裏のうちに処分されてしまったために、見る機会に恵まれることが少ないのですが、幕命撤回から百六十年余り経た2001年、致道博物館において天保一揆を追う特別展が開催されました。水野忠邦の書状や、旗に混じって、圧倒的な存在感を放っているものは、過酷な生き方を強いられても駕籠訴を断行しようとする農民の姿でした。老いた母を残して駕籠訴に行く者、その旅費を工面するために娘を遊郭に売る者、嘆願書を背追い雪深い庄内から実に四百キロの苦難に満ちた山坂を分け入って江戸へのぼろうとする人々の姿は、庄内が踏んだ歴史の蹉跌を語るに充分でした。

 庄内の繁栄は苦難の歴史とあり、困難に立ち向かう歴史でした。困難は為政者によって、時には自然の猛威によってもたらされたものです。

 港都酒田市や、青山留吉を輩出した遊佐をはじめとする庄内地方の発展は、日本海や最上川の水運に支えられたところが大きいのですが、その影には悲惨な海難事故もあったと伝えられています。今日名勝とされる吹浦の十六羅漢も本来は海難忌避を祈願して建立された石像です。天保の義民だけではありません、そこにはいつの日も家族の安全や、穏やかな明日の生活を願う人々の祈りを見つけることができます。自然条件が厳しいほど人々の信仰は厚く、凄惨な自然に負けることのないように一途な気持ちを育んできたのです。目をこらすと庄内には、実に多くの先人の軌跡があります。海岸沿いに続く黒松の林や、川の氾濫を食い止めるために気の遠くなるような歳月を重ねて完成された堰、今日の庄内があるのは、私を捨てて郷土のために尽力した人々の熱意があったからなのです。

 周平さんは、幼い頃から慈しんで田を育てる住民の姿を心に刻み、作品の中でよく描きました。水や緑の豊富な庄内平野の中を駆け巡って大人になり、作家として大成しても、故郷を軽んじることがありませんでした。あたかも庄内の人の気持ちを代弁するかのように、人間の営みを内包している自然の大切さを書き、自然への感謝の心を失うことはありませんでした。それは作家自身が、農の国を母胎として育った人だったからだと思います
現代は自然を尊ぶ意識が薄れ、減反や、五穀豊穣を素直に喜ぶことのできない風潮があります。その余波として、私たちの故郷庄内も例外なく難題を抱えています。けれど、この沃野は必ずしも高名な人間によって作られたのではなく、無名の民衆の手によって築かれたことを忘れてはなりません。時を越えて語りかける人々の情熱こそ、豊かさの源流となったのです。
庄内平野の深い雪の下には、巡り来る季節を待つ息吹があります。この命を絶やすことのないように、守り、美しい国の姿を次世代に継承してゆくことが、私たちの時代に架された課題だと思います。


関連リンク:藤沢周平の世界を訪ねて
9.大督寺

海坂藩 研究所