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故郷「庄内」を作品に辿る

鶴ヶ岡城址  鶴岡市南部の小高い山、金峯山(きんぽうさん)のふもとに湯田川という温泉郷があります。古くから「鶴岡の奥座敷」と呼ばれ、藩政時代には藩主や姫君がおしのびで湯治に訪れた場所と言われています。鶴岡の市街地から南西の方向へ、つづら折りになった街道を抜けて、左手に松尾芭蕉が「めずらしや山を出羽(いでは)の初茄子(はつなすび)」と詠んだ、緑の広がる民田(みんでん)を過ぎたところに、静謐なたたずまいを見つけることができます。

 開湯千三百年という伝統の中で、湯宿の黒塀は深みを増して、その歴史が息づいているようです。幕末に、庄内藩おかかえの新徴組が傷を癒したのもここ湯田川温泉です。東側の丘陵に広大な敷地を構える梅林公園、やわらかな光のこぼれる竹林。市街地の喧騒とは打って変わって、緑の葉音が聞こえてきそうな穏やかな時が流れています。この情景に魅せられて、多くの文人墨客が湯田川をおとずれています。竹久夢二、種田山頭火、古川古松軒、中村光夫、柳田国男、横光利一、そして藤沢周平さんといった方々がこの湯田川のことを思い思いに描いています。

 周平さんはここからほど遠くない黄金村(こがねむら)高坂という地区に生まれています。現在、黄金村は鶴岡市に編入され、生家も跡をとどめるのみになってしまいましたが、勤務した中学校(現在の湯田川小学校)、幼い頃に仰いだ月山の眺め、多くの藤沢周平の世界の面影を見つけることが出来ます。郷里のことはさまざまな形で作品やエッセーに描かれていますが、湯田川に藤沢周平が懇意にしていた九兵衛旅館という宿があります。おかみである大滝澄子さんは、藤沢周平が新卒の教師として中学へ赴任したときの教え子です。さっそくお話を伺いに、湯田川温泉へ向かいました。作家藤沢周平が誕生する以前の「小菅留治」(藤沢周平さんの本名)の素顔を語っていただきました。

 率直に質問しますが、藤沢周平さんはどんな方でしたか。

 とても優しくて、さわやかな印象の方でした。自分には厳しい方だったと思いますけど、それを表に出すということはあまりなかったような気がします。
いろいろご苦労なさったのでしょう。
あのころ、まだ戦争が終ってまもなくでしたので、女の先生か、お年を召された男の先生が多く、担任もしょっちゅう変わっていましてね、戦後の教育制度のごたごたの中で、私たちが新制中学にあがると同時にやって来られたのが小菅先生だったんです。


 若くてハンサムな先生だったので、生徒が騒いだというようなことを後日談として聞いたことがありますが。

 そんなことないです(笑)ハンサムねぇ・・・みんな確かに憧れてはいたのですけど、この辺の人は昔から奥手でしょ。本当に生徒から好かれる良い先生でした。先生はあのころから漢文とか音楽に詳しくて、田んぼや山で遊んでばかりだった私たちに、新しい世界をいろいろ教えてくれました。綺麗な音楽を聞かせてくれたのも先生が初めてでした。クラシック音楽や、それからベルレーヌの詩、教室の壁にもいろいろなポスターを書いて張ってくれて、私たち生徒の世界に新風を吹き込んでくれました。私たちの教室は一階の道路側に面していて、クリスマスの日、下山先生という、もう1人の先生がサンタクロースに仮装して窓から入ってきて、プレゼントをくださいました。贈り物はたしか、鉛筆と消しゴムだったと思います。教室を綺麗に飾り付けして、みんなが芸を披露して、とても楽しかったって、今でも覚えています。


 そんな小菅先生が「暗殺の年輪」で直木賞を受賞されて以降、意欲的に作品を発表しつづけ、時代小説に新たな境地を切り開いた作家となられたわけです。教え子の方は本当に驚かれたと思いますが、有名になられてからもよく九兵衛旅館に足をお運びになったそうですね。

 はい。お部屋も湯から遠くなく、尋ねてこられた方が面会しやすいように比較的入り口の方にとっておりました。(二階に周平さんが滞在された部屋が保存されており、宿泊も可能です)湯田川出身の同級生で年に一度先生を囲んで同級会をしておりまして、体調を崩されてからあまり外出はなさらなかったそうですけど、その会合には必ず出席してくださっていました。

 そしてお泊まりになると、先生は奥様に電話していらしたのでしょうか、「○○はいま立派になってね、○○は・・だったよ」と生徒の近況を話題になさっているんです。先生は作家になられても、生活の中に私たち生徒のことを頻繁に会話に出されているようで、一度練馬のお宅に伺った時、奥様に「あら、澄子ちゃん」と言われたのには驚きました。
有名になってもみんなの先生でした。九兵衛旅館のロビーには藤沢周平直筆の手紙や、色紙、写真などが飾ってある。春になると名物の孟宗料理を味わいに、多くの方が庄内を訪れるけど、少し足をのばして周平先生の世界に触れて欲しいですねと、大滝さんはほほ笑んでおられました。

 湯田川温泉は昔から美人の湯って言われているの。本当に肌が白く綺麗になるから、是非入っていらして、と帰り際に頂戴した言葉がなんとも魅惑的に響きました。


 湯田川からほど近い場所に、藤沢という青田の美しい地区があります。ペンネーム「藤沢」もこの土地に由来すると、エッセーの中で明らかにされています。
 藤沢、湯田川、小真木原、旧黄金村の周囲は、周平さんにとって懐かしい思い出が詰まった場所です。郷里に寄せて書いた、数々のエッセーの中に、その原風景を見るようです。教え子たちへのメッセージ・言葉・食・遊び・風土、郷里の風景をとらえる時の筆致は、慈しみの気持に溢れています。国を憂いたり、歴史を俯瞰するようなことはほとんど書かなかったけれど、人間が悩み、迷いの中でも生きていこうとする姿を正面からとらえ、数々の作品を郷里を舞台として発表した方でした。

 「花のあと」という珠玉の作品があります。

 咲く花のいろに重なるように、故郷の風景をとらえるときの作風は唯一無二の美しさがあり、大切な人と過ごした時間の重さが満ちています。
そこに、懐かしい日々への郷愁を見るようです。

 湯田川を背景に書かれた作品の水底には、戻ることのできない日々への哀切が漂い、作家の姿と、不遇の境地に身を委ねることしかできなかった主人公の境遇が、いつしか重なるようです。早春から晩秋まで咲きほころぶ花に彩られる土地を舞台に、美しい盛りを、剣の道に生きた娘の恋の記憶が、柔らかな方言によって綴られていきます。
花も人間と同様に、自然という循環のなかのたった一瞬の現象に過ぎないのに、私たちは格別の思いで花を愛でます。自分の気持を花に託し、行く末の知れない運命を花の言葉にたとえるように、限りある命を惜しみます。儚さを愛おしく思い、その姿は深くこころに刻まれます。封建時代の哀れな境遇のなかでも、凛と生きていこうとした女性の真の美しさを「花のあと」はとらえています。

 春はたけて、美しい情景のなかにたたずみ想うのは、生涯貫き通された、藤沢周平の柔らかな姿勢です。他の歴史作家と呼ばれた人に比べて、その色彩は淡いタッチで描かれています。人々の迷い、息づかい、涙、作品を通して藤沢周平の世界に触れた時、それが悲しい結末に終ろうとも、みずみずしい気持で満たされていくことに気が付くことでしょう。心のわだかまりが散り、解き放たれていくように、余韻を帯びて、「花のあと」は静かに幕を閉じます。

 いま、勤務した校舎の片隅にはひっそりと、周平さんを偲ぶ碑が建てられています。


「半生の記」から抜粋された一節が、そこに刻まれています。

 当初、周平さんは記念碑の建立を見合わせて欲しいと言ったそうですが、教え子たちがどうしても、とお願いするので、目立たない小さなものなら良いとしぶしぶ承諾した、とのことでした。字体は直筆の原稿を複写したもので、丸みをおびたなんとも優しい印象です。

 文壇に登場してから僅か二十六年の間で、実に多くの作品を世に送り出した人でしたが、この湯田川を舞台に描かれた「花のあと」ほど胸に響く作品はありません。桜前線が北上し、遅くとも四月の下旬には、周平さんの故郷庄内も花のいろに染め上げられていきます。山懐に澱のように漂う花の姿は、見る人の心に沁み入るようです。
春爛漫の美しさは、いよいよ故郷庄内を満たしていきます。
関連リンク:藤沢周平の世界を訪ねて
4.湯田川温泉
12.鶴岡公園

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