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故郷「庄内」を作品に辿る
庄内の四季
 庄内は地理的には中央と離れていましたが、独自の文化・風習を築いて来た豊かで美しい土地です。その豊かさとは、物質的な豊かさを指すのではなく、四季折々の自然がもたらす、精神の豊穣を培う大地の豊かさであると、この土地を知る人は礼賛します。
鮮やかな自然は、独自の文化と共存し、時には激しく敵対しながら、人々のこころに一途な信仰や複雑な思想をはぐくみ、結果として多くの思策家や文人を輩出することになりました。

 司馬遼太郎さんは多作の作家でしたが、ついに庄内を主題として描くことはありませんでした。書き尽くしたと言われた作家が庄内には触れなかったことで未だ秘めたる謎が残されているような気がします。

 周平さんの故郷、庄内には、戦禍を免れた先人の遺産が今も静かに横たわり、長い年月によって育まれた豊かな情念を見ることができます。しかし、私たちは自分の生まれ故郷の、その多くを知りません。風土に根差した深い情念を日々の煩雑のなかに置き忘れてしまったような感があります。
 城趾、土の匂い、山岳信仰、方言、子供の頃駆け回った田舎道。社会が変容を遂げても、失ってはならない風景が庄内には数多く残されています。
藤沢周平さんは庄内に生を受け、庄内をこよなく愛し、そして描いた作家でした。


 山形自動車道月山・朝日インターチェンジから車を走らせて四十分、国道47号沿い右手に白い巨大な風車が見えてきます。

 立川町は出羽丘陵の裾野のゆるやかな高台に在り、長らく日本海からふきつける「清川だし」という強風に悩まされてきました。それを逆手にとって現在は町の施策として風力発電に活用しているそうです。道に迷った時、風車をみて「ここは立川だ」と安心される方もいることでしょう。自らが「風の町」を名乗るだけあってとにかく大きな風車です。

 この町の東方に清川という集落があります。清川は内陸地方と庄内地方を結ぶ分岐点に位置するため古くから交通の要とされました。最上川と立谷沢川という二つの流れが町を横断し、立地的に内陸から庄内への入り口にあたるため、明治末頃までは水陸の駅として繁栄したそうです。参勤交代の一行、商業都市酒田へ向かう商人もいましたが、特に賑わいをみせたのは出羽三山参詣者が多くいたからです。古くは「義経記」の中で、修験者に変装した源義経が、平泉へ北国落ちの際、庄内清川から船で上ったという記載が見られるように、町のあちこちに伝説や歴史の跡を見ることができます。



 清河八郎は天保元年(一八三〇年)出羽国田川郡清川村(現山形県東田川郡立川町大字清川)に庄内一の醸造石数を誇る酒屋斎藤家の長男として生を受けました。幼名を元司といい、後の清河八郎の名は、故郷清川の川を大河の意味の河に変えて、故郷を立て称したと伝えられています。

 幼い頃から「論語」「詩経」に親しみ、十八歳の折、跡継ぎになれという親の反対を押し切り、一層の向学を志し単身江戸へ上りました。
当時江戸の三大道場と言われた玄武館に剣術を学び、通常では目録をもらうのに三年かかるところを一年で取得、同時に学問を重ね、昌平黌(現東京大学)に学ぶも飽きたりず、自らが文武指南の場として神田三河町に開塾しました。江戸広しといえども剣と文を一手に教授するのは「清河塾」だけであったと伝えられています。 

 清河八郎といえば志士のイメージが強いのですが「西の吉田松陰、東の清河八郎」とうたわれたほど学才を持つ人でもありました。

「 既に風雲の勢を作し    龍虎互いに相馳す
     回天の大事業       倡始孰か為す所ぞ 」 (清河八郎記念館『清河八郎遺邦』)

その書や著作の多くは県の文化財に指定されており、立川町の清河八郎記念館で閲覧することができます。

世が泰平であれば一代の儒家として名をあげたのでしょうが、幕末の折、外は欧米諸国の開国の圧力、内は将軍家の継嗣問題、井伊直弼が安政の大獄を敷き、その井伊が水戸浪士によって白昼桜田門にて襲殺されるという内外騒乱、まさに激甚走るといった風潮のなかで、清河八郎は国を治め、民を救う学問こそ真実と、尊皇攘夷運動の渦中に身を投じることとなるのです。


周平さんの「回天の門」は清河八郎の生涯を余すところなく書いた秀作です。司馬遼太郎さんや「眠り狂四郎」の柴田錬三郎さんも同じように清河八郎を描いていますが、そのとらえ方は視点が大きく異なります。
 清河八郎には策謀が多く、その真意を知ることが難しいとされ、歴史的評価は未だ定まりません。倒幕の首魁でありながら幕臣の山岡鉄舟や高橋泥舟と親しく交わり、幕府の許しを受けて募った浪士組をして、倒幕攘夷を画策するなど、事実の表層だけ取り上げるなら理解し難い点があります。けれど、平成の今もなお誤解のなかにある清河八郎の姿を、一人の悩み深き人間として描くことに成功しているのは、藤沢周平さんが庄内に生を受けた人の本質を深く理解しているからでではないでしょうか。


庄内は多くの思索家や文人を輩出する土地柄です。高山樗牛、田澤稲舟、近年では丸谷才一さん、佐藤賢一さんしかり・・・。同郷というだけでひとくくりにするのも滑稽な話ですが、そこには同じ故郷に育った人の気質とも言える類似性を見出すことができるように思えます。

清河八郎を育てたのは、庄内という風土です。八郎が故郷を遠ざけたのは、自分はその土地に生まれたという強烈な自意識の裏返しであり、故郷を思う気持ちが強いゆえのアンチテーゼではなかったのでしょうか。幕末、米沢藩に雲井龍雄という志士がいましたが(『雲奔る』参照)、その雲井龍雄といい、清河八郎といい土地独特の閉塞感に裏打ちされ出てきた志士です。閉塞感とは、三方が山に囲まれているといった地理的条件ではなく、その土地に長い歴史で伝わってきた風習や伝統のようなものです。

庄内でいえばそれは徳川親藩としての自負、と指摘できます。

藤沢周平がそういう郷土の歴史を背景に「清河八郎」という倒幕の先駆ともいえる人物に焦点を当て作品を書くことは、沈黙を守ってきた郷土の歴史に抵触することであり、相当苦心したと推測されます。

もしも、清河八郎が尊皇攘夷論に沸く西日本に生まれていたならば後世の評価は違ったものになっていたかもしれません。

歴史を眺めると、必ずしも正義が勝利するわけでもなく、非論理的でも時勢が味方すれば勝つ場合があります。
 庄内藩は戊辰戦争で負けましたが、そこに信念がなかったわけではありません。確固とした信念があったために、それに殉じたのです。勝者には勝者の論理があるように、敗者には敗者なりの論理があります。清河八郎を敗者とは呼びませんが、同郷の作家の責務として、志半ばにして命尽きた人の懊悩を書かざるをえなかったのではないでしょうか。

歴史や、人間の知られざる暗い部分に光を当てるのが作家の仕事であり責任です。幕末の複雑多岐な情勢の中、己の成す道を模索する清河八郎と、書くことによって自分の本質を問い正そうとする作家の姿は重なって見えてくるような気もします。

 藤沢周平という作家の原型を作ったものは、庄内という土地に他なりません。そして、清河八郎という郷土出身の志士を描いたのは恐らく必然だったのではないでしょうか。

私たちは作品を通して、より深く庄内と向き合うことができます。

美しい清川の景色と、藤沢周平の書く「回天の門」が調和して、庄内が湧き上がってみえてくるようです。手元にある作品を手掛かりに、庄内を歩いたら新しい発見がきっとたくさんあることでしょう。

(注)回天倡始とは八郎が好んで自らを称した言葉。西国は倒幕、東国は攘夷に沸く時勢、国の統一のための魁となる志を歌ったもの。

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