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庄内、とひとくちに言っても広いけれど、この町は江戸時代の末期まで酒井氏の詰めの城が置かれていたために、政治的にその中心的な役割を担ってきました。 藤沢周平の書く世界に憧れて、庄内を訪れる人も多いと聞きました。作品を読んで鶴岡を訪れる観光客のために、市内には、「ここが**物語の現場です」と理解を助けるための標柱があちこちに設置されていますが、実際に市内を歩き回ってみると、時間と作品が混然としてきて奇妙な感覚にとらわれそうです。 |
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| 鶴岡の町のつくりは、城跡(鶴岡公園)を中心として、かつての家老の邸宅や藩の重職の屋敷が取り囲み、その周囲を町人の住まいが立ち並び、町全体を覆うように寺社が配置されています。さらには、城と外部との関所の役目を果たした「木戸」を示す石碑や、敵の襲来に備えて細工された¬字やT字型の小路が界隈に見ることができます。この形状は城下町の特徴的な構図であり、町の骨格は築城の際に形成されたと推測されます。城は戊辰の役の後、本丸と二の丸を除いて解体されてしまいましたが、今でも武家屋敷や大きな古い商家などが軒を並べ、その後の二回の戦争を経ても、この景観は保たれています。 「蝉しぐれ」に鶴岡を照らし合わせて見ると、主人公の住む家の並びや、武道の稽古のために通う道場、藩の重職が住む広大な屋敷、その一つひとつに地名が与えられ、作品が町の景観に溶け込むように、描かれています。そこに人々の往来の様子を見るかのようです。 藤沢周平さんは地図を丹念に眺め、自分が暮らしをいとなんできた郷里の姿を作品の中に再現したようです。 |
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| 馬場町、鶴岡市役所の向かいにある致道館は、九代藩主忠徳の時代に創設された藩校です。「蝉しぐれ」では、学舎「三省館」として登場しています。当初、致道館は日吉町に建立されましたが、政教一致の方針を重んじた十代忠器によって、政を司る城の真正面に移設され、藩の役所も兼ねるようになります。創設の趣旨にかない、致道館において優秀な成績を修めた者は、藩政に参加する機会も与えられました。考古学や物理学、動植物学に至るまで生前約七百の著書を残し、日本のレオナルド・ダ・ヴィンチと言われた松森胤保が学んだのも、ここ致道館です。致道館の名前は「君子ハ学ビテ以テソノ道ヲ致ス」という論語の一節に由来し、その学派は荻生徂徠の学を基本としています。徂徠学は古文辞学とよばれ、解釈に頼らずに、孔子の教えを自ら読み説こうとする学派です。江戸時代、幕府は朱子学以外の学派を禁じていましたが、庄内藩と彦根藩のみ異例の扱いを受け、また志ある者ならば身分にとらわれず、相当の手続きを経て入学を認めたといいます。鶴岡の人の、質実剛健の気風は、こんなところから由来するのかもしれません。 講義の概略や致道館の制度が展示された講堂を右手に進むと、奥まったところに「黒田清隆」と聞き覚えのある人の名が刻まれた部屋があります。戊辰の役の降伏に際して、庄内藩と官軍が調停を行ったのが、この一室です。いまは静謐なこの空間で、今日の庄内を左右する会談が行なわれました。明治の維新に際して、庄内藩は、やがて滅亡する運命にありました。場合によっては今日の鶴岡の町並みはまったく違ったものになっていたのかもしれません。いまの私たちの生活があるのは、西郷隆盛と一人のすぐれた家老の存在があったからと言っても過言ではありません。致道博物館内部には、その様子を伝えるものが残されており、徳の交わりの一端を見ることができます。 いつしか時代の変遷に伴って致道館も廃校となり、その後庁舎として使用されたり、規模も大分縮小されたものとなりますが、庄内の気風を育くんできた場所として現在にいたるまで手厚く保存されています。 先頃、ここから歩いて間もない新百間堀に、国内でも最先端の設備を備えた慶應義塾大学先端生命科学研究所と、東北公益文科大学鶴岡サイトが設立されました。今日でも鶴岡には論語の素読を行う会があったり、子どもたちが町の歴史を研究したりと、好学の精神はしっかりと土地に根付き、伝統と新しい文化が共存しながら、次なる時代へ伝えていこうとする息吹があります。 鶴岡公園の東側には、内川のおだやかな流れがあります。鶴岡市は藤沢周平をはじめとし、この自然風土のなかから多くの文学者を輩出してきた土地ですが、高山樗牛も、田沢稲舟も、この内川に架かった三雪橋付近を生誕の場所としています。文四郎とその初恋の人「ふく」が作中初めて言葉を交わすのもこの内川(作品では五間川)の浅瀬です。「蝉しぐれ」は、この場所から、およそ一年にわたって郷里の山形新聞紙上に掲載されました。 派閥抗争に巻き込まれ、非業の最期を遂げた父の死があり、出世や地位にこだわることなく交わった友の姿があり、恋と呼べないほどに儚い人の姿があります。いつしか旅立っていく人の姿、大人になってそれぞれに家庭を持ち暮らしを営む友人たち、挫折を繰り返しながら、一人前の藩士として成長してゆく主人公の姿があり、これを単に時代小説の枠にあてはめるにはためらいがあるでしょう。作家は体制の前に無力に潰えてしまう人々に対して、弁明することもなく、一瞬のうちに過ぎていく情景を、端正な筆致で綴っています。理不尽な、現代にも通じるかのような社会の枠組みのなかで、その叙情は、読む者へと委ねられていきます。 光と影、そよぐ風の音、樹齢の古そうな欅の木や、こだまする蝉の声、私たちの心に、幼い頃から焼き付いた庄内の風景が描かれています。読む人をいつしか郷愁へ誘う気配が、そこにあります。黄金村のそばを流れる青龍寺川や致道館、馴染みの深いこの土地に、慎ましく真面目に生きてきた人の姿を見つけて、いくつもの作品に描かれてきた庄内と、そこに暮らす人々の姿があります。 かつてこの風土のことを「沈潜の風」と称した人がいましたが、周平さんが描いた世界は、まさしくこの庄内を彷彿とさせる情景であり、作品に、作家が背負う郷里の印象が溢れているようです。 このおだやかな時代に、私たちは先人が庄内を築くために歩んできた苦労を、直接に知ることはできません。けれど、藤沢周平の描いた「海坂藩」の町を知り、城跡や、お堀端、古い町並みを歩いていると、歴史に対する様々なおもいが浮かんできます。蝉しぐれの時代から、明治へ、そして平成の今日と時代は移り変わり、時間に押されるようにして、鶴岡の町並みも、社会の制度も、かつての時代とは大分違ったものに塗り替えられました。そして周平さんもも戦前から戦後へと、一つの時代を生きました。 この藤沢周平愛好会を存続させるに当たっては、実に多くの方に御教示いただく機会を得ております。その際、普段は寡黙がちと言われる庄内の人々が、本当に嬉そうに自分の暮らす町のことを語るとき、人々はいまだ町の誇りを持っていると感じております。この土地で変わらぬ生活を営み、この庄内に根を張って暮らしている現実があります。誇りを持って暮らしている人の姿や、伝統が豊かに継承されている風土に触れたとき、庄内という生命力が失われていないと思えます。 「海坂藩」という架空の町から、庄内という一つのアイデンティティーが見えるようです。この町が経験してきたすべてを包み込むかのようにして、「海坂藩」の美しい町並みは、いま静けさのなかにたたずんでいます。 郷土を愛し、庄内の人と風土を愛した藤沢周平さんの文学は、これからも広く語り伝えられて欲しいと心から願ってやみません。 |
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